見下す方の事情

2003年11月27日
昨日、バカにされたといって嘆く人のことを書いた。
今日は、バカにする方の事情と云うものについて考えてみた。
人を見下したり、バカにしたりするのは、ほとんどの人が毎日のように、意識的にあるいは無意識的に行っている。

ニュースなどを見て、何故それが報道されるのか考えてみたことはないだろうか?
学校の先生が生徒のスカートの中をのぞいて逮捕されたとか、盗んだ車を運転して、追跡されて死亡事故を起こしたか、あるいはまた、出入り業者に圧力をかけ賄賂を受け取ったとか、そういった事件が毎日のように流されている背景には、それらが見ている人々に何らかの興味あるいは共感を覚えるものがあるからであって、むしろ、恵まれない人々が世界中にいて、その人々に何らかの支援が必要だとか、不当な圧力に屈しなければいけない状況があって、それにも何らかの手立てが必要だ、あるいはまた、どこそこに幸せな家庭があって、微笑ましい日常がある、と云う報道のほうが、一見共感を喚起しそうなものだが、圧倒的に少ない。
これは一体どうしてだろうか?

バカにする方は、「バカ」が必要なのであって、実際に相手が愚かであるとか、つまらないことに振り回されている事実があるとかは、一切関係ない。
見下す方にとっては自らと「バカ」と区分するために「バカ」が必要なのだ。

ニュースをみて、世の中の愚かな人々の引き起こした愚かな様を見て、安心するのである。

以前勤務していた職場で、わたくしに、働かない同僚を非難する男がいたが(事実その時の他の同僚のほとんどは日常的にサボリを繰り返し、わたくし自身もあきれていたことがあった)、わたくしはその男に、「もし周りがわたくしたち以上に働きのある勤勉なそして優秀な社員で固められていたら、わたくしたちが非難されていたわけで、もしわたくしとあなたがこの職場で高い評価を受けるとするならば、周りの働かない同僚のおかげだ」と反論した。

このように、どこかに標準値をおいて、それよりも「下」の他者を非難したり、見下したりするのも、一見正当性があるようだが、同じことであろう。

人類は、自我を支えるために、自分より「下」を作る必要があり、毎日のように「下」を見下していないといられない哀れな動物なのだと思う。



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