迷惑
2003年12月7日仕事をしていると、迷惑をかけてすみませんなどと、相手が恐縮することがある。
こちらは、大したことをしたつもりもないし、迷惑と感じていないので、驚いてしまうことがしばしばある。
これは多分にわたくしの性格からきていることで、他の人とは迷惑を感じるところが違っているからなのだと思う。
逆に相手は何とも思っていない、むしろわたくしのためにしてくれることが、わたくしにとって迷惑なこともしばしばある。
では一体迷惑とは何だろう?
公共的に語られる、いわゆる「迷惑行為」とは、その集団に属する多数の人が共通に持っている「して欲しくない行為」のことであり、深夜の騒音であるとか、ゴミのポイ捨てなどであろう。
私的に迷惑なものとは、同様に「して欲しくない行為」のことであるが、ある行為が他人にとって迷惑と感じるか否かは、その感じる人の基準にもよる。
この基準は、人によって異なるし、また双方の関係を映し出しているとも言える。
親しくその上尊敬もしているような他者のために、何かしてあげたいと願うのは、当然お気持ちであり、そのような他者から何かを依頼されれば、多少の無理があっても、少しも迷惑を感じないであろう。
また逆に、日ごろから疎遠でその上見下しているような他者には、ほんの少しの頼みでも、重荷に感じるであろうし、そのような他者から面倒な依頼をされるのはこの上なく迷惑な話であろう。
つまり、双方の関係を示すのにふさわしい頼みごとや行為であれば、迷惑は感じないのであって、例えば、戦前の日本人が聞いた、祖国を防衛するために飛び立つ戦闘機の爆音はその当時の人々には実に頼もしいものであるが、現代の日本人が聞く深夜の暴走族の爆音はその周辺に住む住人には不愉快なものであろう。
だから迷惑はいつも相対的であって、関係を反映しているに過ぎない。
そうであれば、迷惑はいわば独善であり、迷惑をかける方もかけられる方も、自分の「場所」や「ものがたり」を守っているだけに過ぎない。
ただし、これだけの人々が狭い環境の中で住むためには、悲しいかな、「ある独善」にすがって迷惑を標準化するしか方法がないだけである。
そうやって考えていくと、わたくしには自分が感じる迷惑を正当化する理由がないことに気が付く。
アメリカがベトナムや朝鮮、アフガニスタン、あるいはまたイラクに押しかけて行って、「世界平和」のためと称して、迷惑なことを正当化することと同じことを、あるときはこどもに、あるときは関係ない他者に、しているような気がしてならない。
こちらは、大したことをしたつもりもないし、迷惑と感じていないので、驚いてしまうことがしばしばある。
これは多分にわたくしの性格からきていることで、他の人とは迷惑を感じるところが違っているからなのだと思う。
逆に相手は何とも思っていない、むしろわたくしのためにしてくれることが、わたくしにとって迷惑なこともしばしばある。
では一体迷惑とは何だろう?
公共的に語られる、いわゆる「迷惑行為」とは、その集団に属する多数の人が共通に持っている「して欲しくない行為」のことであり、深夜の騒音であるとか、ゴミのポイ捨てなどであろう。
私的に迷惑なものとは、同様に「して欲しくない行為」のことであるが、ある行為が他人にとって迷惑と感じるか否かは、その感じる人の基準にもよる。
この基準は、人によって異なるし、また双方の関係を映し出しているとも言える。
親しくその上尊敬もしているような他者のために、何かしてあげたいと願うのは、当然お気持ちであり、そのような他者から何かを依頼されれば、多少の無理があっても、少しも迷惑を感じないであろう。
また逆に、日ごろから疎遠でその上見下しているような他者には、ほんの少しの頼みでも、重荷に感じるであろうし、そのような他者から面倒な依頼をされるのはこの上なく迷惑な話であろう。
つまり、双方の関係を示すのにふさわしい頼みごとや行為であれば、迷惑は感じないのであって、例えば、戦前の日本人が聞いた、祖国を防衛するために飛び立つ戦闘機の爆音はその当時の人々には実に頼もしいものであるが、現代の日本人が聞く深夜の暴走族の爆音はその周辺に住む住人には不愉快なものであろう。
だから迷惑はいつも相対的であって、関係を反映しているに過ぎない。
そうであれば、迷惑はいわば独善であり、迷惑をかける方もかけられる方も、自分の「場所」や「ものがたり」を守っているだけに過ぎない。
ただし、これだけの人々が狭い環境の中で住むためには、悲しいかな、「ある独善」にすがって迷惑を標準化するしか方法がないだけである。
そうやって考えていくと、わたくしには自分が感じる迷惑を正当化する理由がないことに気が付く。
アメリカがベトナムや朝鮮、アフガニスタン、あるいはまたイラクに押しかけて行って、「世界平和」のためと称して、迷惑なことを正当化することと同じことを、あるときはこどもに、あるときは関係ない他者に、しているような気がしてならない。
コメント