ルール

2003年12月8日
以前にも書いたように、人は自らが作ったルールを破るのが好きだ。
言ってみればこれは言葉のあやで、互いの生活のある種の不具合を前もって予測し、それを回避することが大切なのに、それらを出来ない人々がいて、それでは約束事を作りましょうと出来たものが、ルールである。
だから、ルールはその発生から、ルールを破る人々を予測して出来たものである以上、ルールが破られるのは当然とも言える。

しかしこれのルールは昨日書いた「迷惑」と同様、独善でありその集団においてルールが破られる数が圧倒的多数になった場合は、いとも簡単に改正される。
最近では携帯電話の電車内でのルールが、それに当たる。
少し前までは、車内放送で(ちなみにわたくしはこの車内放送が嫌いである、まるでわたくしたちがー少なくともわたくしがー常識のない、思いやりのない、そしてまた恩知らずでいくらかやくざなものであるかのような言い回しに、うんざりする)電源を切る旨、伝えていたものが、このごろは、優先席付近では電源を切って、その他の場所ではマナーモードでと、変わってきている。

これは、圧倒的にルールが守れない人が多いからであって、それはルールを守らない人々が悪いのではなく、そのような無理な規定をした方に誤りがあるというものである。

だから、やはりルールは独善であり、相対的に過ぎないものであり、ある人々にとっては必要であるが、また他の人には必要のないものであろう。

ルールを破る、例えば電車内において大きな声で携帯電話をかけている他者を見つけたときに、人はどう思うのだろうか?
わたくしが経験した、電車内において大きな声で喋る人は、海外の人、中年のご婦人方、酔っ払った勤め帰りのおっさん、高校生の集団、どれもこれも楽しそうで微笑ましいものであり、これと携帯電話ではさしたる差がないのだが。
中には、電車内で静かにして欲しいと願う人もいるし、騒がしいのが好きだという人もいて、簡単には語れないものがあるが、ただ携帯電話は相手が見えない不気味さがある、しかしそれも最近では見慣れた光景になりつつあるのではないだろうか。

すると、自分はルールを守っているのに何故こいつらは守らないのかと云う、独特の感情がありはしないだろうか?
また、ルールを破る方も、自分が他者とは違った何か優位性を感じてはいないだろうか?

ある人が苦労して、自分では見えないルールを守って、いわば我慢してやっていることを尻目に、他者がいとも簡単に、その種の見えないルールにとらわれず、やってのける時、「あ、ズルイ」と叫ぶことがある。

そこにおけるルールは法的な規制や、道徳観や倫理観とは異なり、どちらかといえば、自己規制の様なものであろう。

その時に自分だけが損をしたような思い、それがルールを陰で支えているように思うのだが。
わたくしには良い例が中々思いつかないが、例えば、女に強い関心があるが、態度に出せず、いつまで経っても女と関係できない男Aと、いとも簡単に女と関係してしまう男Bがいて、AはBを「女たらし」と非難する。
AがBをうらやましがるのは理解できるのだが、非難するのには、自己の正当化が必要である。
そのためにルールが見え隠れする。
そのような他者への妬みや、羨望が、自覚できず、ルールを守らない人々への非難になる。
また、ルールを犯す「確信犯」は、そのような他者からの、妬みや、羨望を自覚しているからこそ出来るのであって、そのような自覚(見えないルールを犯したという)のないものにとっては、ルール自体が存在していないのである。

いずれにせよ、ルールとは破られるために用意されたものであり、またそれを支えるものは共通の利益と云うものではなく、むしろ泥臭い嫉妬や復讐あるいはまた自己正当化の感情である。
ルールもなく、従ってそれに対するのような処罰もない、幸せな暮らし。
それが出来ない不幸な動物、それが人類であろう。

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