値頃感
2003年12月9日友人がわたくしのことを説明するのに、「値頃感」と言う言葉を使ったことがある。
例えば、クルマが一台5円と聞いたらビックリするだろうし、石鹸が一箱50万円もすると聞いては、わたくしなどは腰を抜かしてしまう。
わたくしたちは、値段を聞く時、「クルマ」や「石鹸」に対して「値頃感」を持っている。
クルマと聞けば、おそらく数十万円〜せいぜい300万円くらい、これを出れば高級車であって、わたくしの生活には余り縁がない。
石鹸といえば、せいぜい数百円止まりで、それを超えたものは何か特殊な目的(例えば美容であるとか、病気に効くとか)を持っていると考えるだろう。
このある種のものに対してある範囲の中の想定が「値頃感」である。
概して、人はあらゆるものに一応の「値頃感」を持っている。
分をわきまえた行為と言うものを支えているのは、おそらく自分の「値頃感」であろうし、
自分の職業から、年収、結婚相手、友人にいたるまで、人は「値頃感」の中で動くことを好みにしている。
それを打ち破るのが、ニュースになったり伝記になったり、あるいはまた童話や映画になるのは、打ち破らないこと、あるいはまた打ち破れないことが日常的な証左であろう。
しかし、いつの世も革新であるとか、斬新であるとか呼ばれるものは、「値頃感」を打ち破ることから始まっている。
こうやって、毎日のように人類の悪口みたいなことを書いているわたくしは、いつか自我の作り方がその「値頃感」を打ち破って、新たな差別も復讐も、被害妄想や責任転嫁のない世界が登場しないかとひそかに願っているのだが、考えてみればわたくしの家の庭に毎日やって来る、鳥だの猫だの方がその上では、実に優雅で幸せな暮らしをしているように見える。
どうして人は「値頃感」を自分の世界に置きたがりそれを好むのであろうか?
それは、自分の目の前に登場した対象が、過去の中のどんなものとどんな風に違うのかを、自分の目で確かめるすべを知らないからであろう。
常に、過去の中の何かと比較して、つまりはある程度の「値段」を付けておかなければ不安であり、そのような「値段」のつかないものには、うっかり手を出さないで、油断がならないと警戒しなければならないのであろう。
中身が分からないというのは、実に困惑を呼び起こすもので、わたくしなどは宝石類に全く疎いものだから、値札を見て「高いものだからきっと良いに違いない」などと値段で決めてしまう。
先月、皇室の縁者(正確さを欠いた表現かもしれない)だと身分を偽って、詐欺罪で逮捕された人物がいたが、これも宝石の値札とさしたる変わりはないであろう。
不安が引き起こすこの「値頃感」は、あるときには実に便利であるが、同時に様々な弊害を感じる。
昨日の車内放送を不快に感じるわたくしには、車内放送を支える「値頃感」が害として感じるし、長々とした前置きが嫌いなわたくしは、初対面の挨拶や、儀式的な挨拶が面倒で仕方がない。
さて、このわたくしの書いている「日記」には、通常の日記と呼ばれているものとは随分異なるようである。
第一、 その日のことはさっぱり書いていない。
第二、 日記で書く必要もないようである。
いままで、この世で暮らして気が付いたことを、その日その日に書いているだけで、日記を読むのを楽しみにしている人には、つまらないことこの上ないものである。
これも「値頃感」を大きく外れてしまったもので、もっと他の場所で書き記した方が良いのかも知れない。
とは言うものの、結構書いていてどこかウサを晴らしているみたいで、書いている当人には楽しい面もあるので、当分お付き合い頂ければと思っている。
例えば、クルマが一台5円と聞いたらビックリするだろうし、石鹸が一箱50万円もすると聞いては、わたくしなどは腰を抜かしてしまう。
わたくしたちは、値段を聞く時、「クルマ」や「石鹸」に対して「値頃感」を持っている。
クルマと聞けば、おそらく数十万円〜せいぜい300万円くらい、これを出れば高級車であって、わたくしの生活には余り縁がない。
石鹸といえば、せいぜい数百円止まりで、それを超えたものは何か特殊な目的(例えば美容であるとか、病気に効くとか)を持っていると考えるだろう。
このある種のものに対してある範囲の中の想定が「値頃感」である。
概して、人はあらゆるものに一応の「値頃感」を持っている。
分をわきまえた行為と言うものを支えているのは、おそらく自分の「値頃感」であろうし、
自分の職業から、年収、結婚相手、友人にいたるまで、人は「値頃感」の中で動くことを好みにしている。
それを打ち破るのが、ニュースになったり伝記になったり、あるいはまた童話や映画になるのは、打ち破らないこと、あるいはまた打ち破れないことが日常的な証左であろう。
しかし、いつの世も革新であるとか、斬新であるとか呼ばれるものは、「値頃感」を打ち破ることから始まっている。
こうやって、毎日のように人類の悪口みたいなことを書いているわたくしは、いつか自我の作り方がその「値頃感」を打ち破って、新たな差別も復讐も、被害妄想や責任転嫁のない世界が登場しないかとひそかに願っているのだが、考えてみればわたくしの家の庭に毎日やって来る、鳥だの猫だの方がその上では、実に優雅で幸せな暮らしをしているように見える。
どうして人は「値頃感」を自分の世界に置きたがりそれを好むのであろうか?
それは、自分の目の前に登場した対象が、過去の中のどんなものとどんな風に違うのかを、自分の目で確かめるすべを知らないからであろう。
常に、過去の中の何かと比較して、つまりはある程度の「値段」を付けておかなければ不安であり、そのような「値段」のつかないものには、うっかり手を出さないで、油断がならないと警戒しなければならないのであろう。
中身が分からないというのは、実に困惑を呼び起こすもので、わたくしなどは宝石類に全く疎いものだから、値札を見て「高いものだからきっと良いに違いない」などと値段で決めてしまう。
先月、皇室の縁者(正確さを欠いた表現かもしれない)だと身分を偽って、詐欺罪で逮捕された人物がいたが、これも宝石の値札とさしたる変わりはないであろう。
不安が引き起こすこの「値頃感」は、あるときには実に便利であるが、同時に様々な弊害を感じる。
昨日の車内放送を不快に感じるわたくしには、車内放送を支える「値頃感」が害として感じるし、長々とした前置きが嫌いなわたくしは、初対面の挨拶や、儀式的な挨拶が面倒で仕方がない。
さて、このわたくしの書いている「日記」には、通常の日記と呼ばれているものとは随分異なるようである。
第一、 その日のことはさっぱり書いていない。
第二、 日記で書く必要もないようである。
いままで、この世で暮らして気が付いたことを、その日その日に書いているだけで、日記を読むのを楽しみにしている人には、つまらないことこの上ないものである。
これも「値頃感」を大きく外れてしまったもので、もっと他の場所で書き記した方が良いのかも知れない。
とは言うものの、結構書いていてどこかウサを晴らしているみたいで、書いている当人には楽しい面もあるので、当分お付き合い頂ければと思っている。
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