NIPPON!
2003年12月13日スポーツが嫌いである。
スポーツ観戦も嫌いである。
そういえば、わたくしはスポーツを見に行ったことがない。
一時、テニスのウィンブルドンの大会を見て、あきれるほどの執念や恐ろしいまでの運動能力に興味を覚えたが、2、3年で見るのを忘れてしまった。
戦略ゲームとして捉え、智恵を絞り、体の慣性を利用した仕掛けなどを見ると、それなりに興奮するのだが、身体の動作自体が舞踊のような優雅さとは違っていて、あまり好きになれない。
その上、この間たまたま見たTVで世界大会の模様を放映していたが、ことあるごとに「ガンバレ日本」「日本惜しい!」と叫ぶ。
まさに「日本」のために奮闘している選手がいて、「日本」を高め、「日本」を愛している視聴者がこれを見て感涙にむせび泣く(大げさかな−)姿を想定しているかの如くである。
一生懸命、戦っている相手国の選手がファインプレーをしても、自国の危機を叫ぶばかりである。
なにが国際社会の一員か、呆れてしまうよね。
わたくしたち日本人が日本のためにがんばっている選手を応援するのがいけないとか、日本を愛していないのかと、いろいろ言われそうだが、これが国際大会ではなく、全日本のチャンピオンを決める例えば県対抗だとどうなるのか?
そうなればそうなったで、今度は自分の所在している県を応援することになり、もちろん地元のテレビ局やラジオ局も、「××県がんばれ!」と叫ぶのであろう。
すると今度は地元を愛していないのか?
と言われそうである。
日本を愛しているのではなく、地球を愛している、または宇宙を愛していると言えば理解されるのだろうか?
要するに、以前に書いた帰属の問題でしかない。
自分をどこの帰属とみなすのか?
それで、自分の行動を決めているに過ぎない。
わたくしで言えば、スポーツが嫌いなのでさしたる帰属は持てないものの、素晴らしい作戦知とか、個人技を見るのは不快ではない。
愛国心とか言うものの正体も同じであると考えていて、こういうことを持ち出す人ほど、実は帰属しているものに対する愛情は強いものの、それ以外のものに対する愛情は非常に薄い。
なぜなら、自分の愛情をそのように規定できる、つまりは帰属をどこで区切るか、などと云う問題を疑いもせずに口や態度に出来る人は、自分の利益に関して敏感な人であり、同時に自分の帰属以外のものには非常に鈍感であろう。
もしそうでないのなら、そのような区分そのものが不必要であり、様々な他者に愛情を注げるはずだからである。
「同じ日本人として、恥ずかしい」とか、「同じ男として、情けない」とか、そういった帰属をたてに何かを言う時も同じであろう。
オリンピックが近づくと、必ずといっていいほど日本がメダルを何個取れるとか、万一取れないと責任問題になったりする。
こういう自分の帰属している何某かの利益に敏感な動作と、人に優しいとか地球に優しいとか、優しさが大好きな人々の動作とが、分裂しているように思える。
スポーツ観戦も嫌いである。
そういえば、わたくしはスポーツを見に行ったことがない。
一時、テニスのウィンブルドンの大会を見て、あきれるほどの執念や恐ろしいまでの運動能力に興味を覚えたが、2、3年で見るのを忘れてしまった。
戦略ゲームとして捉え、智恵を絞り、体の慣性を利用した仕掛けなどを見ると、それなりに興奮するのだが、身体の動作自体が舞踊のような優雅さとは違っていて、あまり好きになれない。
その上、この間たまたま見たTVで世界大会の模様を放映していたが、ことあるごとに「ガンバレ日本」「日本惜しい!」と叫ぶ。
まさに「日本」のために奮闘している選手がいて、「日本」を高め、「日本」を愛している視聴者がこれを見て感涙にむせび泣く(大げさかな−)姿を想定しているかの如くである。
一生懸命、戦っている相手国の選手がファインプレーをしても、自国の危機を叫ぶばかりである。
なにが国際社会の一員か、呆れてしまうよね。
わたくしたち日本人が日本のためにがんばっている選手を応援するのがいけないとか、日本を愛していないのかと、いろいろ言われそうだが、これが国際大会ではなく、全日本のチャンピオンを決める例えば県対抗だとどうなるのか?
そうなればそうなったで、今度は自分の所在している県を応援することになり、もちろん地元のテレビ局やラジオ局も、「××県がんばれ!」と叫ぶのであろう。
すると今度は地元を愛していないのか?
と言われそうである。
日本を愛しているのではなく、地球を愛している、または宇宙を愛していると言えば理解されるのだろうか?
要するに、以前に書いた帰属の問題でしかない。
自分をどこの帰属とみなすのか?
それで、自分の行動を決めているに過ぎない。
わたくしで言えば、スポーツが嫌いなのでさしたる帰属は持てないものの、素晴らしい作戦知とか、個人技を見るのは不快ではない。
愛国心とか言うものの正体も同じであると考えていて、こういうことを持ち出す人ほど、実は帰属しているものに対する愛情は強いものの、それ以外のものに対する愛情は非常に薄い。
なぜなら、自分の愛情をそのように規定できる、つまりは帰属をどこで区切るか、などと云う問題を疑いもせずに口や態度に出来る人は、自分の利益に関して敏感な人であり、同時に自分の帰属以外のものには非常に鈍感であろう。
もしそうでないのなら、そのような区分そのものが不必要であり、様々な他者に愛情を注げるはずだからである。
「同じ日本人として、恥ずかしい」とか、「同じ男として、情けない」とか、そういった帰属をたてに何かを言う時も同じであろう。
オリンピックが近づくと、必ずといっていいほど日本がメダルを何個取れるとか、万一取れないと責任問題になったりする。
こういう自分の帰属している何某かの利益に敏感な動作と、人に優しいとか地球に優しいとか、優しさが大好きな人々の動作とが、分裂しているように思える。
コメント