刷り込み

2003年12月14日
毎日、避難所からヘンテコリンが見ているマトモな世界の話をしているが、わたくしがどうしてヘンテコリンであるのか、一時期悩んだことがある。
それは今年の春のことだったが、心療内科や精神科へ足を運んだ。
しかし、病気だと思っているわけではないし、日常生活で仕事が手につかないとか、眠れないとか、あるいはまた食事がのどを通らないとか、そういったことも一切ないので、診察する方も困っていたようである。

この日記の読者は気が付いておられると思うが、わたくしには人の文化やルール、感情についていろいろ理解できないことが多い。
多くの人は、差別が必要であり、そのように他者を見下していなければ、自我の存在は危ういであろうし、肉親や近しい人が殺された、ひどい目に遭ったなどと云うとき、復讐を考えるであろう。
しかし、わたくしはそのように見下すのではなく、真に相手のある能力が低い場合については、それを低いと言うだけであって、わたくしには差別は必要ない。
また、肉親や親しい人が殺された、ひどい目に遭ったなどと云うとき、ただただ悲しかったり、苦しかったりするだけで、復讐は一切考えない。

なぜそのような差があるのだろうか?
これは、もちろん後天的なことにも原因があり、先天的なことばかりとはいえない。
事実わたくしにもそのような差別や復讐を考えていたと思われる時期があった。
しかし、それはあくまである一時期であり、それが性に合わないのか、やはり不要のものであったのか、その後そのような気持ちや考えはなくなってしまった。

わたくしは、幼児期の刷り込みが原因ではないかと考えている。
一般に、幼児期に親あるいは親代わりのものが、家庭や何かの集団でその幼児を育てていく。
その際に、自我の基礎が作られる。

その頃にどうやらわたくしは病院で看護婦に育てられ、家に帰ってからも家政婦に育てられたらしい。
母親は、結核で完治したものの、片肺を切除していて、その頃はとても育児など出来る状態ではなく、仕方がなく、このような状況に合ったものと思われる。
おまけに、わたくしの父は作家であるが、他の場所で「きちんと」家庭を持っており、わたくしの母親は愛人であり、わたくしは認知されていない私生児であった。

まあ、このような社会的な立場はわたくし自身のヘンテコリンとはあまり関係なく、どんな風に育てられたのか、つまりはどのような刷り込みの過程があったのかが問題であろう。

わたくしの母親と言うのは、実にいい加減な人で、もちろん一つ一つのことに関して言えば、会社を経営して、従業員に対しては面倒見がよく、太っ腹で、クライアントからも信頼を得ている、立派な面がある。
ところが、その一面とは裏腹に、現実や過去を塗り替えてしまう、幻想癖があり、このような分裂から、従業員にだまされて、ひどい目に遭っている。
なのに
そのひどい目に遭ったことも、いつの間にか消えてしまう。
非常に判断が早く、決断力もある反面、慎重に時間を掛けるようなことは出来ないし、相手が迷っていると、勝手に判断してしまうところがある。
わたくしに対しても、思い入れはほとんどなく、ならなければならない職業とか地位も一切言われたことも無ければ、勉強しろとか片付けろとかの小言もほとんどなかった。
しかし、母親と実際に暮らしたのは数年間だけだから、その印象も薄い。

そのように、一切の重荷がなく、責任を問われたこともないのに、自分の家や自分の空間と言う物を持たされなかった、と云うことが、幼児期のわたくしの環境で特徴的なことだと思う。
つまり、放置・放任されていながら、本人は周囲に気を使わないと生きていけないという不思議な状態で、一応何らかの自我は作らなければいけないのだと言う強迫観念みたいなものが心に強く刻まれたのを覚えている。

このような、環境であるところでは非常に上品だと言われ、あるところではこのクソガキ!生意気な、と言われ、自分でも一体どんな風に振舞えばよいのかさっぱり分からなくなってしまった。

しかし、母親のいい加減な育児のおかげで、下手な刷り込みが無かった分、わたくしは差別も復讐も関係ないところで、随分楽をさしてもらっている。

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