アルコール依存症
2003年12月19日なだいなだと云う精神科学者(分析医であったか忘れた)がアルコール中毒(依存症のことを以前はこういう風に言っていた)の本を出して、その中で、「自分はまだアルコール中毒ではないと言い、まだ大丈夫と信じて飲み続ける、まさにその様を、アルコール中毒と呼ぶべきだ」と書き記していたが、耳の痛い御仁も多くいるのではないだろうか?
このように、自分はまだ大丈夫だと思いながら、周囲から見たらとき既に遅しと言ったことは、なぜ起きるのだろうか?
ここにも、自己認識の甘さがある。
自己を認識するのと、そうであって欲しいと願うのには、明確な差がある。
自己が、周囲との間で起こした様々な事実は、自己が認識するよりも周囲の方がずっと冷静に受け止めている場合が多く、これは、こうありたい、こうであって欲しいと、願う様と、実際の自己との間に、実は不可分の領域があるからに他ならない。
誰しも分かることだが、自分が夢描いたものと、自分自身を混同するなんてことはあり得ない。
例えば自分が、女に大もての、「この野郎持てやがって!」などと言われるくらいに成りたいと思っていても、実際の自分は、大して女に持てず、人から羨まれるような存在でないことは十分知っている。
ところが、これが混同されている場面は多々ある。
上の例のように、評価が事実によって示される場合においては、混同はあり得ない。
しかし、評価が事実を根拠にではなく、全体像の捉え方や、周囲との比率などで、捉えることが可能な場合において、混同される。
例えば、アルコール中毒の場合、なだいなだは、小さな失敗から始まると言っている。
学生時代などで、大して飲めない、どちらかと言えば下戸の部類の人が、仲間と朝まで痛飲して、翌日授業に遅れた、などと云う小さな失敗である。
このような失敗は、考えようによっては、誰でもしていることであり、ことさら大げさに騒ぎ立てるようなことではない。
そのうち、そういった小さな失敗が続くが、酒の上でのことでたいていは許されてしまうのである。
酔ってケンカしても、「まあ。酒の席でのことですから・・・」とこんな風に。
こういったことが続いて、ついにはある程度致命的なミスが引き起こされる。
その時に、周囲から少しは酒を控えたらなどと注意され、本人も少しは控える。
が、そのうち、同じような過ちを繰り返し、ついには、アルコール中毒になるというのである。
問題は、「小さな失敗」である。
この失敗を、どう捉えるかで、その後の人生が、大きく変わるのである。
事実を評価するのは、なぜか?
それは評価する側に、必ず何らかの意図があるからである。
その評価を土台に、何らかの結論を導くとか、傾向を引き出すとか、そういった諸々の意志があるから、評価すると言った行為が支えられるのであって、関心も好奇心もないものに、人は評価を下さない。
では、「小さな」と云う形容詞は、いかなる意図で作られたか?
答えは明白である。
大きさは関係ないのに、単なる失敗でいいのに、わざわざそれに「小さな」と云う形容詞が必要なのは、それが実は本人にとって重要であり、かつ認めたくないからである。
このように、事実を評価する際に、何らかの意図によって、その評価が簡単にすりかえられる時、または簡単にすりかえようとする時、人は自身の姿を、幻の姿と混同するのである。
これは時によっては、単なるうぬぼれで済むであろうし、親バカであったり、アバタもエクボであったり、それはそれで微笑ましいし結構なことだが、一つ間違うとなだいなだが指摘したように、中毒になりうる。
そしてこの世でもっとも恐ろしいのは、平和のための戦いをする中毒であろう。
(文中敬称略)
このように、自分はまだ大丈夫だと思いながら、周囲から見たらとき既に遅しと言ったことは、なぜ起きるのだろうか?
ここにも、自己認識の甘さがある。
自己を認識するのと、そうであって欲しいと願うのには、明確な差がある。
自己が、周囲との間で起こした様々な事実は、自己が認識するよりも周囲の方がずっと冷静に受け止めている場合が多く、これは、こうありたい、こうであって欲しいと、願う様と、実際の自己との間に、実は不可分の領域があるからに他ならない。
誰しも分かることだが、自分が夢描いたものと、自分自身を混同するなんてことはあり得ない。
例えば自分が、女に大もての、「この野郎持てやがって!」などと言われるくらいに成りたいと思っていても、実際の自分は、大して女に持てず、人から羨まれるような存在でないことは十分知っている。
ところが、これが混同されている場面は多々ある。
上の例のように、評価が事実によって示される場合においては、混同はあり得ない。
しかし、評価が事実を根拠にではなく、全体像の捉え方や、周囲との比率などで、捉えることが可能な場合において、混同される。
例えば、アルコール中毒の場合、なだいなだは、小さな失敗から始まると言っている。
学生時代などで、大して飲めない、どちらかと言えば下戸の部類の人が、仲間と朝まで痛飲して、翌日授業に遅れた、などと云う小さな失敗である。
このような失敗は、考えようによっては、誰でもしていることであり、ことさら大げさに騒ぎ立てるようなことではない。
そのうち、そういった小さな失敗が続くが、酒の上でのことでたいていは許されてしまうのである。
酔ってケンカしても、「まあ。酒の席でのことですから・・・」とこんな風に。
こういったことが続いて、ついにはある程度致命的なミスが引き起こされる。
その時に、周囲から少しは酒を控えたらなどと注意され、本人も少しは控える。
が、そのうち、同じような過ちを繰り返し、ついには、アルコール中毒になるというのである。
問題は、「小さな失敗」である。
この失敗を、どう捉えるかで、その後の人生が、大きく変わるのである。
事実を評価するのは、なぜか?
それは評価する側に、必ず何らかの意図があるからである。
その評価を土台に、何らかの結論を導くとか、傾向を引き出すとか、そういった諸々の意志があるから、評価すると言った行為が支えられるのであって、関心も好奇心もないものに、人は評価を下さない。
では、「小さな」と云う形容詞は、いかなる意図で作られたか?
答えは明白である。
大きさは関係ないのに、単なる失敗でいいのに、わざわざそれに「小さな」と云う形容詞が必要なのは、それが実は本人にとって重要であり、かつ認めたくないからである。
このように、事実を評価する際に、何らかの意図によって、その評価が簡単にすりかえられる時、または簡単にすりかえようとする時、人は自身の姿を、幻の姿と混同するのである。
これは時によっては、単なるうぬぼれで済むであろうし、親バカであったり、アバタもエクボであったり、それはそれで微笑ましいし結構なことだが、一つ間違うとなだいなだが指摘したように、中毒になりうる。
そしてこの世でもっとも恐ろしいのは、平和のための戦いをする中毒であろう。
(文中敬称略)
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