ある若い女性が、自分の足を、太くて醜いと嘆いていた。
その女性は、一時期ダイエットをして自身の理想に近い脚線美を得ていた。
しかし、その後元へ戻ってしまって、今はその足が醜いと嘆いているのである。

このような、自身の容姿に関して、自信がないというか、低く見る女性は実に多い。

あるとき、その女性に「それでは、あなたと同じような背格好で、あなたより足が太い人はみんな醜いと感じるのか?」と尋ねたことがある。
その女性は返事に窮して「私は自身の身体に自信がないだけ」と答えた。
つまりは答えになっていないのである。

このようなことも、世の中には多くあり、もっともわたくしが相手にしているのはほとんどが日本人であり、あくまで日本人の傾向なのかもしれないが、それにしても、自身のそれも肉体に関する価値観と、他者への価値観の相違には驚かされる。

他者に批判的な自身と云うものを隠蔽したがるのか、そのような他者を批判する自己と云うものが嫌いなのか、その辺の事情は不明だが、自身に対する価値観それも批判的な価値観を持ちたがる傾向はどこから来るのであろうか?

もちろん、価値観とは一般に他者に対するものと、自己に対するものは、一致していなければおかしなものであり、そうでなければ、それは価値観とは呼ばずに、単なる好き嫌いである。

話を肉体の価値観に戻せば、自身の容姿に関する価値観と他者に対する価値観が二重になっているとすれば、その理由には次の3つに分かれるであろう。

一つは、実はそのように価値観は分裂しておらず、心のうちではそのような自身と同じような体型をしている他者も、醜いと感じてはいるが、そのような一見相手を見下すような発言・心情を悟られるがイヤなので覆い隠している。
この場合は、他の場所では、自身より低い(この場合は自分よりキレイではない、美しくない)ものを見て安心しているのであり、こういう人に、自信を否定的に見る価値観を肯定すると、後で嫌われてしまう傾向にある。

また、もう一つは、そのように自身に批判的な自己が好きで、本当はもっと美しくありたい、または美しい時があったと、相手に明示する必要があった。
このような場合では、現実の自身を受け入れることが苦手であり、ある意味ではプラス思考であり、ある意味では本当の自分という過去の幻想に引きずられやすいタイプであろう。

最後に、本当は醜いと感じていない、むしろキレイだと自慢したいところであるが、それはあまりにも浅ましいと感じているので、あえて醜いと言って、相手にそんなことはないきれいだと言われたい。
自信を喪失している時に、オレなんかダメな奴なんだ、ワタシなんか居ても居なくてもいいんだワ、などといっている時、大抵の場合は、そんなことないよ、と云う言葉を期待しているものであり、そうだそのとおり、お前はダメな奴だと言ってしまったり、そうさお前なんか居ないほうがいいんだ、などといってしまったりするのは、友達がいがないとされたものである。

どの場合でも、心情的には理解できるものであるが、そのような自己を自身が確認できないところに、わたくしは怖さを感じる。

わたくしがここでも不思議に思うのは、なぜ美しさや優れているというものに、保障(標準値)を求めるのであろうか?
例えば、世の中のほとんどの男性がその女性をあまりきれいだと思わなくても、自身が愛した、あるいは恋愛している男性から美しいと言われればそれでいいのではないのだろうか?
あるいは、自身が美しいと感じる自分を感じればよいのであって、何も否定的な要素を取り出す必要がどこにあるのであろうか?

もちろん、個人にはそれぞれ美学があり、何を美しいと思うか、何を醜いと思うかには、差があり、そのような美学で自身を見つめた時に、必ずしも自身を美しいと思わないかもしれない。
そうであれば、ただそれだけのことであり、それ以上に何かを求める必要はない。
世の中の標準値からの賞賛を欲しいために、エステに通い、ダイエットをして、好きなものを食べずに、矯正下着を着て、化粧品に懲り、奔走する。
そうやって得たものは、一体なんであるのか?
自己の価値観が一体どこからもたらされたか、疑わないほど怖いことはなく、知らず知らずのうちに、資本に踊らされ、他者をもそのような価値観で時にはうらやみ、時には見下しているその心情ほど、醜いものはないと思うが、いかがなものであろうか?

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