見えるということ
2003年12月26日能力の問題で、あることが「見える」と言うことが必ずしも有利ではないことがある。
これは、見えているがゆえに、その怖さを知って、足がすくむと言うような話ではなく、実際に「見える」ということが、足枷になること様な話である。
例えば、良い例が見つからないので、またもやへんてこな例を出すが(このような仮想の話になると、ぴったりした良い例が見つからないのは、わたくしが特殊なことを考えすぎなのかとも思ったが、どうやら才能がないだけのようである)、サレテ・ムーシ島ではその島民のほとんどが、赤と青の区別がつかない。
赤と青は、茶色に見えるのだ。
従って、この島では信号が変わっている。
茶色は進め、黄色は注意、緑が止まれ、となっているのである。
さて、この島の住民は、本人たちに言わせればすべて茶色に着色しているつもりなのだが、わたくしたちには赤であったり、青であったりする。
わたくしたちが、この島の信号に従うのは、赤と青は進めと理解すればよいのだから、何とかなるが、逆にサレテ・ムーシ島の住民が、わたくしたちの世界に踏み込んでその信号に従うのは至難の技である。
では、一体どちらが有利な生活をしているのだろうか?
わたくしたちの世界から見れば、サレテ・ムーシの島民は赤と青の区別がつかない点で「劣っている」ことになるが、反対から見れば、同色であるはずの茶色を赤や青と云う変な名前をつけて混乱している点で「劣っている」のはわたくしたちであることになる。
これは色彩の認識の問題であるが、光の波長では面白いことが確認されている。
モンシロチョウはわたくしたちから見ると、雄と雌の区別がつかないが、では一体彼らはどうやって押すと雌の区別をしているか?
答えは、紫外線である。
彼らは、わたくしたちの肉眼では確認できない方法で、区別をしている。
これらは、実際の「見える」ことで生体の認識の方法が異なることの問題であるが、わたくしには、その自我の作り方によって、見えるものと見えないものがあることに気が付いている。
人類の文化は、様々なものを分けてきている。
それは人類の生存、あるいは共存にとって必須のものであったこともあり、時には性別であり、時には年齢であり、要はその帰属が重要視されるのである。
しかし、わたくしには、その帰属に対する符号の意味が理解できても、それが何を示すかにはほとんど理解できないことが多い。
これは、ある意味で「劣っている」ことであり、サレテ・ムーシの島民から見たわたくしたちの立場のように、わたくし以外の人々が「劣っている」ことのように思えてならない。
例えば、わたくしはゲームが好きで、ゲームの相手であれば、それが社会的にすぐれたと言う意味での帰属を示すものを持つ人であっても、反対に社会的に劣っていると言う意味での帰属を示すものを持つ人でも、一切関係ない。
最近インターネットを通じて、将棋や碁を楽しむ人たちが増えているが、そのような人々にとって、相手がどんな国籍であろうと、どんな風貌を持つ人であっても、楽しくゲームに興じることが出来るのは、まさに相手が「見えない」ことが深く関係していると思うが、考えすぎであろうか?
これは、見えているがゆえに、その怖さを知って、足がすくむと言うような話ではなく、実際に「見える」ということが、足枷になること様な話である。
例えば、良い例が見つからないので、またもやへんてこな例を出すが(このような仮想の話になると、ぴったりした良い例が見つからないのは、わたくしが特殊なことを考えすぎなのかとも思ったが、どうやら才能がないだけのようである)、サレテ・ムーシ島ではその島民のほとんどが、赤と青の区別がつかない。
赤と青は、茶色に見えるのだ。
従って、この島では信号が変わっている。
茶色は進め、黄色は注意、緑が止まれ、となっているのである。
さて、この島の住民は、本人たちに言わせればすべて茶色に着色しているつもりなのだが、わたくしたちには赤であったり、青であったりする。
わたくしたちが、この島の信号に従うのは、赤と青は進めと理解すればよいのだから、何とかなるが、逆にサレテ・ムーシ島の住民が、わたくしたちの世界に踏み込んでその信号に従うのは至難の技である。
では、一体どちらが有利な生活をしているのだろうか?
わたくしたちの世界から見れば、サレテ・ムーシの島民は赤と青の区別がつかない点で「劣っている」ことになるが、反対から見れば、同色であるはずの茶色を赤や青と云う変な名前をつけて混乱している点で「劣っている」のはわたくしたちであることになる。
これは色彩の認識の問題であるが、光の波長では面白いことが確認されている。
モンシロチョウはわたくしたちから見ると、雄と雌の区別がつかないが、では一体彼らはどうやって押すと雌の区別をしているか?
答えは、紫外線である。
彼らは、わたくしたちの肉眼では確認できない方法で、区別をしている。
これらは、実際の「見える」ことで生体の認識の方法が異なることの問題であるが、わたくしには、その自我の作り方によって、見えるものと見えないものがあることに気が付いている。
人類の文化は、様々なものを分けてきている。
それは人類の生存、あるいは共存にとって必須のものであったこともあり、時には性別であり、時には年齢であり、要はその帰属が重要視されるのである。
しかし、わたくしには、その帰属に対する符号の意味が理解できても、それが何を示すかにはほとんど理解できないことが多い。
これは、ある意味で「劣っている」ことであり、サレテ・ムーシの島民から見たわたくしたちの立場のように、わたくし以外の人々が「劣っている」ことのように思えてならない。
例えば、わたくしはゲームが好きで、ゲームの相手であれば、それが社会的にすぐれたと言う意味での帰属を示すものを持つ人であっても、反対に社会的に劣っていると言う意味での帰属を示すものを持つ人でも、一切関係ない。
最近インターネットを通じて、将棋や碁を楽しむ人たちが増えているが、そのような人々にとって、相手がどんな国籍であろうと、どんな風貌を持つ人であっても、楽しくゲームに興じることが出来るのは、まさに相手が「見えない」ことが深く関係していると思うが、考えすぎであろうか?
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