そのままの形

2003年12月30日
いつものように、毎日を過ごしていると、日常生活がある種のパターンに彩られていくのが自覚される。
そして、多重人格やある種の精神性の病でもない限り、人格には一貫性があり、その人の日常生活には、カラーがある。
しかし、繰り返し述べているように、人は分裂していて、前にも述べたが年齢や履歴、出身や生い立ちに関して、実際の物と、こうありたいと願うものに分かれている。
この分裂は言ってみれば、ほころびのようなもので、これをそのつど縫い合わせて、都合の良い理屈やものがたりを持ち合わせていないと、一貫性を欠くことになる。

ここで、何かに出会う。
これは新しいものであったり、今までのものであるが少し違いがあるものであったりする。
これに対して、人はラベルを貼る。
なぜ貼るのか?
それは、日常生活が彩られるのと同じように、その出会ったものが、特殊な色を持ち合わせることに苛立ちを覚えるからである。

そんなことはない、ワタシは何かに出会うのが好きだと言う方もいると思う。
しかしそれは、何かが自身にとって意味あるものであり、その意味があるというところにラベルが貼られているのである。

つまり、そのままの形、評価せずに、判断せずに、それをそのままに受け取ることが、人は苦手である。
以前見たことがあるものに似ているとか、どこかで聞いたものに似ているとか、そのような比較は対象を早く認識するのに有利であるが、何ゆえに認識しようとするのかと言えば、そのままの形を取り入れるのではなく、自身の何かに置き換えようとする心の強い働きがあるからである。

子供の教育とはラベルを貼ることから始まっている。
これは母親であるとか、父親であるとか、これは美代ちゃんだよとか、健太君だよとか。

新たなものを発明するのが得意な人々がいる。
これらの人々に共通しているのは、判断停止ボタンを持っていることである。
ある形や機能が提示された時、それを何かに置き換えるのではなく、そのものの働きや存在を不安なまま受け入れるのである。

新しいものを作るために、ある種の機能やシステムの構築をしている時に偶然に何かに出会う。
これは、今現在行っている新しいものには不要であるが、今までとは異なった作用や振る舞いをする。
これをじっと見つめるのである。
そこには、評価や判断は無い。
そのままの形を受け入れるのである。
そして、それを頭のどこかの引出しに入れておく。
その容量が大きければ大きいほど、また別の何かを作っている時に、ひらめくのである。

そのままの形、そのように生まれてくるわたくしたちの子供に、わたくしは接していきたい。


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