創造力
2004年1月9日今日昼に、造形の作家と話をする機会を得た。
彼は、年齢55、仕事もFRPという素材を使って人形やオブジェなどを作っている。
何でも東京都現代美術館で、何かの展覧会があり、そのために三体の不思議なオブジェを既に完成させていた。
あとまだ、2体残っているそうで、構想は決まっているから、すぐに完成できるとのことだった。
さて、彼が言うには年齢を重ねるごとに、創造力が付いてきた、35歳くらいまでは何も作れなかったが、最近になってますます、何をどう作るべきか、わかった来たのだそうだ。
一般に、芸術などの作品を創造していくエネルギーは、加齢とともに減衰するものであるといわれている。
まれに、彼のような例を見ることがあるが、それは一体なぜか?
彼に言わせれば、それは若い頃に認められると、その成功には創作とは別の次元で様々な余計なものが、ついて周り、そのために、本来あったエネルギーがそがれるのではないかと。
名声や富を得ると、人は弱いものである。
その名声や富がもたらすものは、ある意味で残酷ささえ伴うことがある。
一度高い評価されてしまうと、次にはもっと高いところへ行かねばならない。
迂闊に出そうものなら、非難轟々、評価の高かったものまで、偶然の産物と言われかねない。
そこへ行くと、彼は実に気楽なのだと言う。
本来あるべき姿で、創造のエネルギーを蓄積して、挑めるのだから。
人はみなこのような創造力を本来持っているのであろうか?
子供の頃は、大抵様々な遊びを作ったり、話を作ったりするもので、確かに幼児期や小学校の低学年頃までを見ると、創造力は備わっているかのようである。
それがそがれてしまうのは、つまらぬ世事に現を抜かすからだろうか。
わたくしは、創造力とは失ったと錯覚している、自身の剥げ落ちた何かを取り戻そうとする行為であると感じている。
わたくしの場合、自身を取り巻いている世界には、自分にピッタリ重なるものが無く、何を持ってきても、どこかがわずかに異なる、そのような違和感を覚えるのである。
そこで、悪あがきをする。
大した才能も無いのに、一生懸命何を作っているかと言えば、自分がどこかに落としてしまったとか、忘れてしまった感覚であるとか、あるいはまた、本来持っていたと錯覚している何かを、拾い集めているかのようである。
このような行為を創造と呼ぶのであれば、その創造力が落ちると言うのは、拾えなくなるようなことであると言える。
喪失感が無ければ、拾う行為は存在しない。
喪失感の薄れとも言えるのだとすれば、なぜ失ったと思えなくなるのか?
ここにも分裂を見ることが出来る。
人は生まれ育ってから、増大していくものと、減少していくものがある。
確かに、諸々の教育によって、人は成長してあらゆるところでいろいろな働きをする。
しかし同時に、子供の頃の何かを失うのである。
それは純粋さとか、無邪気さとか、あるいはまた、自由な発想であるとか。
増大していくものに価値観を認め、それを何かの力と信じている者には、創造の力はあまり必要ないであろう。
減少していくものに価値観を認め、これを取り戻そうとする、復活させようとする、そのような者には、創造の力が必要であると感じる。
そして、さらに言えば、創造に関わるものが、どんどん失ったものの本質に近づけば近づくほど、創造力は増大するであろうし、その本質からズレていけばズレるほど、減少すると感じる。
造形作家である彼は、今どんどん彼の歴史を遡って、子供の頃の既成概念のない自由な世界で遊んでいるのだと、確信している。
彼は、年齢55、仕事もFRPという素材を使って人形やオブジェなどを作っている。
何でも東京都現代美術館で、何かの展覧会があり、そのために三体の不思議なオブジェを既に完成させていた。
あとまだ、2体残っているそうで、構想は決まっているから、すぐに完成できるとのことだった。
さて、彼が言うには年齢を重ねるごとに、創造力が付いてきた、35歳くらいまでは何も作れなかったが、最近になってますます、何をどう作るべきか、わかった来たのだそうだ。
一般に、芸術などの作品を創造していくエネルギーは、加齢とともに減衰するものであるといわれている。
まれに、彼のような例を見ることがあるが、それは一体なぜか?
彼に言わせれば、それは若い頃に認められると、その成功には創作とは別の次元で様々な余計なものが、ついて周り、そのために、本来あったエネルギーがそがれるのではないかと。
名声や富を得ると、人は弱いものである。
その名声や富がもたらすものは、ある意味で残酷ささえ伴うことがある。
一度高い評価されてしまうと、次にはもっと高いところへ行かねばならない。
迂闊に出そうものなら、非難轟々、評価の高かったものまで、偶然の産物と言われかねない。
そこへ行くと、彼は実に気楽なのだと言う。
本来あるべき姿で、創造のエネルギーを蓄積して、挑めるのだから。
人はみなこのような創造力を本来持っているのであろうか?
子供の頃は、大抵様々な遊びを作ったり、話を作ったりするもので、確かに幼児期や小学校の低学年頃までを見ると、創造力は備わっているかのようである。
それがそがれてしまうのは、つまらぬ世事に現を抜かすからだろうか。
わたくしは、創造力とは失ったと錯覚している、自身の剥げ落ちた何かを取り戻そうとする行為であると感じている。
わたくしの場合、自身を取り巻いている世界には、自分にピッタリ重なるものが無く、何を持ってきても、どこかがわずかに異なる、そのような違和感を覚えるのである。
そこで、悪あがきをする。
大した才能も無いのに、一生懸命何を作っているかと言えば、自分がどこかに落としてしまったとか、忘れてしまった感覚であるとか、あるいはまた、本来持っていたと錯覚している何かを、拾い集めているかのようである。
このような行為を創造と呼ぶのであれば、その創造力が落ちると言うのは、拾えなくなるようなことであると言える。
喪失感が無ければ、拾う行為は存在しない。
喪失感の薄れとも言えるのだとすれば、なぜ失ったと思えなくなるのか?
ここにも分裂を見ることが出来る。
人は生まれ育ってから、増大していくものと、減少していくものがある。
確かに、諸々の教育によって、人は成長してあらゆるところでいろいろな働きをする。
しかし同時に、子供の頃の何かを失うのである。
それは純粋さとか、無邪気さとか、あるいはまた、自由な発想であるとか。
増大していくものに価値観を認め、それを何かの力と信じている者には、創造の力はあまり必要ないであろう。
減少していくものに価値観を認め、これを取り戻そうとする、復活させようとする、そのような者には、創造の力が必要であると感じる。
そして、さらに言えば、創造に関わるものが、どんどん失ったものの本質に近づけば近づくほど、創造力は増大するであろうし、その本質からズレていけばズレるほど、減少すると感じる。
造形作家である彼は、今どんどん彼の歴史を遡って、子供の頃の既成概念のない自由な世界で遊んでいるのだと、確信している。
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