説得

2004年1月13日
仕事上、他者を説得する作業が多い。
中には数時間を要する場合もあり、人一人納得させるのは大変な作業である。
ましてや、要求と要求がぶつかる他者の間に入って、両者の要求を調節する際など、下手をするとこちらが両者から非難される展開も考えられるので、コトバ一つにも気を使う。

例えば、自身の過失や落ち度はそっちのけで過大と思える要求をする相手などに遭遇する時は大変である。

何度も繰り返し言っているが、人は大なり小なり、現実の自分と、自分が自身に下しているいわば自画像のような自身の像(幻想の自分とでも言うべきか)は、異なっている。
自己嫌悪などという奇妙な形も、現実の自分のしたことを、幻想の自分が見つめているからこそ出来る芸当で、みっともないことをした自分を、普段はみっともないことなどしないのに、あんなはしたないことをしたと幻想の自分が嫌悪している姿であろう。

上のような、過大な請求をしている相手は、自分の要求が過大だとは決して思っていない。
自身の過失や、落ち度は、幻想の自分がきちんと正当化しているので、そのようなことを指摘しても、正当化を繰り返すか、自身を攻撃しているとんでもない奴だと、こちらまで非難するか、のどちらかになる。

このような相手には、例話法が有効である。
立場を変えて、あなたが相手だったらどうするかとか、そのような過大な請求を逆にされたらどうするとか、などを手を変え品を変え話していくのである。

また、そのような請求をする相手に、「あなた自身は誤ってはいないが、今の世の中ではそのような請求に対して、実は冷たい態度を取っている」などと、相手の行動に対する批判ではなく、そのような行動が現実の社会では受け入れられない、もしくは受け入れられにくい(舌かんじゃった・・・)という現実をほのめかすことも有効であろう。

どんな人間でも現実の自分と幻想の自分とに分裂している以上、その分裂を支えるためには、正当化が必要であり、そのような正当化の末、その本人は一貫した思考で自我を支えているのであって、冷静な他者から見れば、実に自分に都合の良い理屈や考えで、一貫していない態度に見える者でさえ、自分では辻褄があっているのである。

そのような人に対して、一貫していないと批判するのは実に難しい。
それを認めると、今まで何とか正当化してきたものが崩れ、自我の歴史がまずいものになる。
ある個人は、その歴史の中でいくつかの転機がある。
青春をかけたものに、挫折したり、好きな女に振られたり、思わぬことで近親者を失ったり、偶然や必然を繰り返して、様々なものに出会い、様々なものを失う。
その時に、正当化の物語が少しずつではあるが、変化していく。

そのようなときに、それまで一貫してきたと思っていたものが、変化するのであって、転機ではないときに、変化するのはやはり至難の技であろう。

そうして考えると、説得に一番有効なのは、感情的なものでしかないということに行き着くのである。
一見利害関係で支えられているかのような、取引における説得も、そのような利益を与えてくれる他者に対して好感を持つのであって、いくら利益をもたらすとわかっていても、感情的にその範囲を超えたものに対して、人は説得されにくい。

逆に、いくら損な取引でも、感情的な「ものがたり」が辻褄の合う形で当の本人を覆うことが出来れば、人は喜んで引き受けるものである。
もちろん、そのような感情的な「ものがたり」も自我を正当化する行為の一部であることは、論を待たない。

(わたくし自身は、これも何度も繰り返し言っているが、正当化と云う行為をそれほど悪いことだと思っていない、むしろある種の正当化は、この世にあって実に円滑に物事を進めていくものであり、現代社会においては必須の行為であると考えている。ただ、そのような正当化している行為そのものに対して、同じように言い訳をして、これを認めずに、「正当化」することを批判しているつもりである。)

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索