血液型

2004年1月14日
酒の席であるとか、何かの集まりで、人から血液型を聞かれることが良くあった。
ちなみにそのころのわたくしは、自分の血液型を忘れていたので、適当に答えると、「やっぱりそうだと思った」と我が意を得たりと、性格分析をする。
そうして「典型的なxx型人間だわ」と来る。
しかし、実は後でよくよく考えて思い出してみると血液型はxxではなかった。
あまりも嬉しそうに話をしている、その人に悪いので、そのことは隠していたが。

なぜ、人は血液型の話をするのであろうか?
考えても見れば、代表的な血液型は数種類しかなく、そのような数種類に全人類が性格的に区分されるわけはなく、少し考えればこれほどおろかな話もない。

とすれば、その話自体にはさしたる意味がなく、そのような話をする場の雰囲気であるとか、自身が楽しいだけであり、血液型に飽きたら、また違った分析と称する言葉遊びをするのであろうか。

わたくしは、いわゆる世間話が苦手であり、具体的な話ばかりする人といると、疲れる。
抽象的にいえば、数少なく言ってしまえることを、前後関係や背景などを延々と話されると、もともとが短気な性格もあり、その場を離れたくなる。
(ただし、そのような場にあっても、ほっといてくれている限りにおいては、楽しいのである、他人が楽しそうに話しているのを見るのは、実に微笑ましいものであり、わたくしに意見を求めたり、同意を求められると、困る)

しかし、酒の席というものは、わたくしが経験した限りではそのような話が延々と続く場であり、当の本人たちは楽しいことこの上なく、子供のようにはしゃいでおり、血液型や、手相を見たり、時には運命論や宿命論に及んだりする。

このような血液型の話をするのは、不安が原因だと思っている。
相手との距離がつかめない、相手の存在がどこか知っておきたい、そのような不安が生じた時に、この手の話はその不安解消にうってつけなのかも知れない。
同じように手相を見るという行為も、今までの距離を近づける意味があり、血液型にせよ手相にせよ、身体に関わることを話題にするのは、親しみを増そうとする意味があるのであろう。

不思議なことに、このような物事の根幹にあるのは、占いではないかと感じることが良くある。
雑誌やTVなどの媒体は、この占いがあると販売部数が伸びたり、視聴率が上がったりするのである。
この現代にあって非科学的と云うなかれ、占いは相当数の人が、それをマトモに信じてはおらず、ある種の楽しみにしているのである。

この背景には、社会がその構成する人々の「ものがたり」に対して求心力を失った姿であると感じている。
全体主義とか軍国主義などの、統一された社会の意志によって、その社会の構成員が一致団結して、何かを生活の基本原理とする、そのような社会にあっては、このような占いは力を持たない。
なぜなら、構成員は定められた、あるいは押し付けられた何かに向かって動いているのであって、生活の指針が明確になっているからである。

しかしそのような社会性は、あちらこちらで崩れ、今ではほとんど見られなくなっている。
(ついホンの60年前には日本でも同じようなことがあったにもかかわらず、朝鮮民主主義共和国での統一された姿を唖然と見ている人々を見て、実に忘れやすい民族であると思うのはわたくしだけであろうか)

人は、ほとんどの人が自分自身に非常に高い関心を持っており、そのような自己がどこから来てどこへ行くのか、漠然とした不安を抱えている。
そのような漠然とした不安は、生活上の基本原理を、強制されたり、押し付けられたり、あるいはまた気が付かないうちに植えつけられたりしている間には起きない。
その指針を失って、代替の思想やイデオロギーも持てない人々が町に溢れ、不安が増大したために、占いがある種の力、楽しみになると考える。
と同時に、そのような指針がなくなって、バラバラになった孤独な群集に、本来あるべき人類の姿に、少し近づいたのではないかと、密かに喜びも感じている。

ただし、この本来ある姿に近づいた人類の自我を支えるための代価は、心の病となって顕在化している。


コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索