楽観と悲観
2004年1月15日世の中には、同じような困難なことに遭遇しても、楽観的な人と悲観的な人がいる。
どうしてそのようなことが起きるのだろか?
おそらくは、性格的なことであろうが、気の短い人が辛抱の必要な職業について成功している話や、また反対に気の長い人がテキパキとまるで短気を起こしているかのように仕事をしているケースもあり、一概に性格的なことばかりとは言えないと思うが、どうだろうか?
まず、人生において困難なことは誰にも起きていて、被害者意識の高い人はともかく、普通の感覚(そんなものがあるのかどうか良くわからないが)で言えば、ある人だけに困難が多く降りかかることは稀であろう。
そうすると、楽観的な人は、以前にもそのような困難なことに際して、楽観的に対応して来たはずであり、楽観視したために何かを失ったりしても、その世界観の変更を余儀なくされるような思いがなかったから、今も楽観的な見方をするのであろう。
もし、そうではなく、その時その時に後悔をして、その楽観的な性格や見方を強く否定したなら、少しは変わっていくであろう。
と云うことは、本人にとっては、そのような見方をして失うものがあっても、それ以上に自身がその見方をすることに何らかの利益があるから、続いているのだと理解できる。
そのような利益とは一体なんであろうか?
楽観的に物事を見るということは、まず問題解決にあっていたずらに緊張することが少ないと思える。
普段どおりのその本人の実力が出やすいものである。
またそのような態度で臨むと、余裕があるために全体像を見渡したりすることも可能であろう。
その上、出来る自分、達成できる自分を、イメージする点でも、有利さがあるとしたものだ。
しかし、実体の自分はある実力で止まっており、いくら楽観的な見方をしても、可能なことは限られているはずであり、結果は悲観的であろうと楽観的であろうと、変わらないはずである。
楽観的だったから出来たのだという、理由付けは、同様に悲観的だったから可能だったのだと同じくらいの理由付けに過ぎない。
なぜなら、物事を悲観的に見る人は、そのような現実に際して、慎重であり、最悪の事態に対する備えがされていて、多少神経質になることもあるかと思うが、そのような性質は、繊細さにも繋がりやすく、得るところも大きい。
すなわち、楽観的であろうと、悲観的であろうと、現実を解決するには、それ相応の実力や運が左右されるだけであり、ものの見方にはあまり関係ない。
楽観的だったから、あるいは悲観的だったから、解決できたのだというのは結果論に過ぎない。
むしろ、そのような性格を論じ、それに何かを結びつけることそのものに意味があり、そのような属性を持つことに、それを顕わにすることに、意味がある。
現実を悲観視する者は、あるべき理想の姿が高く、現実の問題がそれより低い位置にあると感じている。
反対に楽観視している者は、あるべき理想の姿が低く、現実の問題がそれより高い位置にあると感じている。
そう考えていくと、あるべき理想の姿を高く見たり低く見たりする根拠がどこにあるかを論じなければならない。
わたくしは、そのような根拠は自身をどこに置くかと同じような根拠であると感じている。
つまり、その人が抱えている「ものがたり」の出発点がどこにあるか、それを指し示していると感じる。
自身を支えるために、被害妄想や責任転嫁を繰り返し、おろかな毎日を送るヒトをみて、動物よりも下だという認識を持つわたくしにとっては、今の現実に悲観的な見方をするのは当然の帰結だと考える。
どうしてそのようなことが起きるのだろか?
おそらくは、性格的なことであろうが、気の短い人が辛抱の必要な職業について成功している話や、また反対に気の長い人がテキパキとまるで短気を起こしているかのように仕事をしているケースもあり、一概に性格的なことばかりとは言えないと思うが、どうだろうか?
まず、人生において困難なことは誰にも起きていて、被害者意識の高い人はともかく、普通の感覚(そんなものがあるのかどうか良くわからないが)で言えば、ある人だけに困難が多く降りかかることは稀であろう。
そうすると、楽観的な人は、以前にもそのような困難なことに際して、楽観的に対応して来たはずであり、楽観視したために何かを失ったりしても、その世界観の変更を余儀なくされるような思いがなかったから、今も楽観的な見方をするのであろう。
もし、そうではなく、その時その時に後悔をして、その楽観的な性格や見方を強く否定したなら、少しは変わっていくであろう。
と云うことは、本人にとっては、そのような見方をして失うものがあっても、それ以上に自身がその見方をすることに何らかの利益があるから、続いているのだと理解できる。
そのような利益とは一体なんであろうか?
楽観的に物事を見るということは、まず問題解決にあっていたずらに緊張することが少ないと思える。
普段どおりのその本人の実力が出やすいものである。
またそのような態度で臨むと、余裕があるために全体像を見渡したりすることも可能であろう。
その上、出来る自分、達成できる自分を、イメージする点でも、有利さがあるとしたものだ。
しかし、実体の自分はある実力で止まっており、いくら楽観的な見方をしても、可能なことは限られているはずであり、結果は悲観的であろうと楽観的であろうと、変わらないはずである。
楽観的だったから出来たのだという、理由付けは、同様に悲観的だったから可能だったのだと同じくらいの理由付けに過ぎない。
なぜなら、物事を悲観的に見る人は、そのような現実に際して、慎重であり、最悪の事態に対する備えがされていて、多少神経質になることもあるかと思うが、そのような性質は、繊細さにも繋がりやすく、得るところも大きい。
すなわち、楽観的であろうと、悲観的であろうと、現実を解決するには、それ相応の実力や運が左右されるだけであり、ものの見方にはあまり関係ない。
楽観的だったから、あるいは悲観的だったから、解決できたのだというのは結果論に過ぎない。
むしろ、そのような性格を論じ、それに何かを結びつけることそのものに意味があり、そのような属性を持つことに、それを顕わにすることに、意味がある。
現実を悲観視する者は、あるべき理想の姿が高く、現実の問題がそれより低い位置にあると感じている。
反対に楽観視している者は、あるべき理想の姿が低く、現実の問題がそれより高い位置にあると感じている。
そう考えていくと、あるべき理想の姿を高く見たり低く見たりする根拠がどこにあるかを論じなければならない。
わたくしは、そのような根拠は自身をどこに置くかと同じような根拠であると感じている。
つまり、その人が抱えている「ものがたり」の出発点がどこにあるか、それを指し示していると感じる。
自身を支えるために、被害妄想や責任転嫁を繰り返し、おろかな毎日を送るヒトをみて、動物よりも下だという認識を持つわたくしにとっては、今の現実に悲観的な見方をするのは当然の帰結だと考える。
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