このところ思うところあって、しばらく書き込みを休んでいたが、また再開するのでよろしく。
また過去に遡って?いろいろ書いたのでそちらも読んでくださいね

さて、コミュニケーションで大切なのは、自分の立場や考えを言うと同時に、相手の立場や言い分などを良く聞くことだということ言われるが、このようなコミュニケーションが出来ているケースは稀である。
ほとんどの場合、自分の意見は主張するが、相手の言い分はほとんど聞いていない。
聞いていたとしても、それは自分の言い分を通すために戦略的に聞いている場合がほとんどで、試しにご自分の周囲で、自分の言い分をよく理解してくれている人を探してみると良い。
そのような場合どこか世界観の一致を見るのではないだろうか?
異なった世界観であろうと、コミュニケーションは成立するし、また大きく隔たりがあるからこそ、コミュニケーションが必要なのではないだろうか?
世界的状況を見ても、異なった世界観におかれた二つの国家は大抵仲が悪く、ともすると武力行使になりかねない。

このように異なるものに対して、聞く耳を持たないのはなぜか?
聞いてしまうことと、それを認めることは次元が異なるからであろう。
聞くと云う行為は、まず相手の論点がどこにあるかと云うことを考えねばならない。
その論点に対して、自分はこれこれのこういった感想を持っているという、論拠を相手に示さねばならない。
そのような、論点を互いに探りあいながら、さらに討論や感想などを交換して、互いの立場や意見などを、調整したり、現実的な接点を見出すことが大切なのである。

しかしその次元において、人は不要な感情を持つ。
言わば、気に入らないのである。
それが自己を実現するような逼迫した状況であればあるほど、相手の異なった世界観は、自身を脅かすのである。

そのような、異なった世界観が自身を感情的に苛立たせたり、不安にするのである。
しかし、もともと人は同じような世界観にあったとしても、細部にわたっては様々な相違点がある。

簡単言ってしまえば、十人十色、人それぞれの感性や感覚を持ち合わせているのであって、完全なる同意や、完全なる同一性は見出せないのである。
違って当たり前で、だからこそ面白いのに、その違いに対して、それを認めることは自己不安に繋がる。

そのような人の成立原理からして矛盾している、このような観点に立っては生涯コミュニケーションなど成立しない。

自分と相手が異なる立脚点に立っていたり、異なる世界観を持つことが自身を脅かさないという、最低限の論拠、論点をしっかり持たねば、自己不安から解放されず、コミュニケーションなど到底無理な話である。

今までの世界の歴史を振り返って、大量虐殺や恐ろしい国家犯罪の類は、このような自己不安が社会的に拡大していって、行われたものと思う。
自身と大きく異なるものを、汚いものや奇妙なものとして排除する、そのような自己不安は大抵の場合、最初は小さな一歩であることを忘れてはならないと思う。

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