慣れ2

2004年1月19日
では一体なれるということと、既成概念や先入観念に囚われないこととは両立するのであろうか?

その問いに答える前に、わたくしのパズルの世界をお話したい。
パズルを作る際に、一番大切なのは、オリジナリティである。
誰の真似でもない、独自の世界を作り出すことに心を砕いている。
だから(知らない場合を除いて)常に他者の既にある形は創作の動機から除かれる。
そうして、作る世界は独自の色彩を帯び、そのパズルを解いた人にある種の共感を呼ぶ。
そうやって作られた絆は、またもや次の創作へのエネルギーとなるわけである。

では、作り手であるわたくしには、「慣れ」があるのだろうか?
もちろん、数々の作品を解き、また作り、それを繰り返していく中で、「慣れ」は生じる。
それは、言わば技量が熟していく過程であり、作り手にとっては大切な要素である。
しかし、新しい作品に必要なのは「慣れ」ではない。
新たな作品は、そういった「慣れ」のないところから出発する。

つまり、新たな世界を作るという明確な指標があるからこそ、「慣れ」は捨てなければならないのであって、そのような特殊なことがない限りにおいて「慣れ」は非常に便利なものであるから、何の疑いもなく使われる。

ではこの「慣れ」はなぜ人間にとって必要なのであろうか?
わたくしはまたもや、「不安」が原因であると睨んでいる。
「不安」な要素を排するためには「慣れ」が重要な働きをする。
人は不安になると、「慣れ」た方へ向かう習性を持っている。
通いなれた道はどの道よりも安全な道であるし、物事に対する対応を標準化すると、人はミスが少なくなりやすい。
反対に、新たな道は不安でいっぱいで、当然不慣れな道なので誤ることも多い。
それを押してなお、新たなことが必要である、または新たな道を進みたいと強く願うようなことがなければ、「慣れ」た道を進むのであろう。

特に日本人は変化を好まない体質があるようで、今までの方法を崩して、新たな処理をするのを非常に嫌がる場面に遭遇することが多い。
これは責任問題の一面もあるようで、従来の方法を踏襲すれば責任は取られずに済むが、新たな方法で挑んで、もしそれが何らかの問題を引き起こした場合、その責を負わされる不安は相当なものらしい。

またパターン化することによる、処理の早さ、安全さを願う一面もある。
もちろん、新たなことをするにはそれなりの英知が必要であり、古い処理体系で得られていた安全性などを充分に考慮しなければならないであろう。

しかしそれらの事を差し引いても、なお新しさへの不安が大きい。
そのような躊躇をあちらこちらに感じるのである。

これは人の成長と深い関連があると思う。
これはまた明日。

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