部分的な許容

2004年1月23日
魅力ある人と付き合う。
ましてやそれが異性となると、わくわくするものである。
恋が芽生え、愛の物語が始まる。
しかし、人は大抵の場合、別離を迎える。
別離に関して言えば、その理由には枚挙にいとまがない。
数え上げたら星の数ほどの、すれ違い、憎しみ、要は人生観や感性のことなりが生む悲劇であろう。

かく言うわたくしも、ご多分に漏れずいくつもの別離を繰り返している。
しかし、わたくしの別離にはいくつかの特徴がある。
まず、相手を憎んでの別離がないこと。
次に、再び会うことが何のためらいもないこと、もちろん相手のほうはわたくしを憎んでいるかも知れないし、二度と会いたくないと思っているかも知れないが、どうやらそうでもないようだ。(現実に別離の後も何度か会っているし、今でも何らかのコンタクトを取っているからである)

これは、随分高飛車な言い方になるが、わたくしは部分的な許容ということが出来ないからであろう。
もちろん、他者のすべてを許容して、喜んで引き受けることは、マザーテレサでない限り出来ないあろうことは、理解している。

ただ、相手の魅力は、同時に相手の魅力のない部分と繋がっているのであって(あくまでわたくしから見た話であるが)魅力だけを切り離せないと感じているからである。

例えば、愉快な面白いオトコがいて、実はそれは暴力的なところがあるオトコだったとして、暴力は嫌いだから当然非難するし、愉快なところは歓迎する。
そして、その暴力がとても耐え切れないものだとしたら、その部分だけを切り離すであろう。
ところが、わたくしにはそれが基本的に出来ないのである。

同様に、ステキなオンナがいて、それがヒステリックなオンナであれば、付き合う限りにおいて、そのようなヒステリーにはもちろん付き合うのである。

当然、ヒステリーや暴力は嫌いだし、迷惑な話なので、止めるようにとことん話し合うが、相手の存在を求めている、あるいは認めている間は、そのような自分に都合の悪い部分を切り離すことは出来ない。

これは、弁当屋の話に似ている。
出来立てのお弁当が食べたいのなら、時間が掛かるのを我慢しなければならない。
時間が掛かるのがイヤなら、多少まずい弁当で我慢するしかない。
おいしいものが食べたい時に、時間が掛かるのは全然苦にならないのである。

むしろ、人は自分にとって都合よく存在するのではなく、ある存在は必ず部分的なものではなく、様々な要素が絡み合って、存在するのであるから、部分的な許容は必ず限界が来る。

そしてそのような部分的な許容を好まない、わたくしは実は自分自身が部分的に許容されたことに大いなる不満を持っているのかも知れない。
自分が全体的な許容を望んでいるから、このようなわけのわからないことを言い立てているのだと思う。

しかし、そのような全体的な許容は時として意外なことを生む。
現代社会にあって、はじかれてしまいがちな人々から、好まれる。
彼らは、自身の責任において、あるいは社会の偏見によって、はじかれ部分的な許容しか許されないできたことが多い。
だから、そのようなわたくしの全体的な許容に対して魅力を感じるかも知れない。
ま、わたくしもはじかれるような存在であるということかな・・・

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