我慢

2004年2月4日
自分が我慢しているのに、相手が我慢しない。
それが我慢がならないという。
では一体なぜそんなに我慢しているのかと問えば、同じ目的に向かって今はいろいろなことを我慢しようと、誓ったのに、と答える。

いろんなところでこんな話があるだろう。

夫婦で、節約して家を買おうと約束したのに、ご亭主はパチンコですったとか、女房殿が思
わず洋服を買ってしまったとか、あるいは営業会社などで、目標を決め所属する営業所が今月は全社でトップになって、報奨金をもらおうとか。

約束を反故にされた方の憤怒は大きいものがあるだろう。
また約束を破った方も、それなりに言い訳があったりするので、余計に溝が深くなる。
もっとも、しんから謝っておれば、まだ救いがあり、怒ったほうの心証の害も少しは少なくなるというものであろう。

このような、約束事が守れないで挫折したり、相手を怒らせたりするのも、人間ならではの行為である。
出来ないことと知りつつ約束したのであれば、罪は重く、確信犯といわれても仕方がないであろうが、そのようなことは少なく、当の本人はその約束が守れる、あるいは破ったとしても黙ってればバレナイくらいに思っているのであろう。

しかし、出来ると思っているのはなぜだろう?
何か、自分自身の中にそれなりの確実なものでもあるのだろうか?
もしそうであるなら、約束を守れなかったことは、どう説明されるのであろうか。

たいていの場合、うすうす出来ないことと知りつつも、何とか我慢できると思っているのであろう。
しかし、自分を知らないとはこのことで、そのような我慢は通常の状態であれば出来るが、世の中には様々なアクシデントガつきものである。
例えば、前から欲しかったブランドの洋服が、格安で売られていたので、この際勝てしまった方が得であるとか、パチンコ屋の前を通ったら偶然友人に会い、この店は良く出るよといわれたりとか。

こういったことが起きた時に、普段からのその人の心情が出やすい。
日常生活の中でなんでワタシだけが、こんなことになっているんだろうかとか、いつも貧乏くじを引かされているだとかの、いわゆる被害妄想を持っている人は、我慢をする理由を自分で決めておきながら、そのことに対して反する行動を起こすとき、それを正当化する。

だから、相手が約束を破った時の憤怒は激しいものとなる。
決められたことを守らなかったことだけなのに、それ以上の激情が走るのである。
これは被害妄想の拡大化である。

これとは反対に、我慢を自分のためにしていることであり、他者が我慢できずに約束を破っても、さしたる怒りも持たない人がいる。
冷静に分析し、我慢の方法や、方向、あるいはその程度を変えるよう勧め、また我慢そのものが果たして意味ある行動なのかも見直すよう、一緒に考えるような人までいる。

こういった人々は、被害妄想的にではなく、実体としての自我を捉えている。
考えてみれば、我慢とは一度決めたら、ただ単に感情を抑える動作、要望を抑える動作に過ぎない。
それには何ら理由付けなど必要ないし、問題は我慢をすると決めたところまでであろう。
それ以降の、様々な揺らぎは、幼い頃のいわゆるしつけや、環境、あるいはまた性格や性質に由来するものではないかと、考えられる。

愚かなことを、国家単位でしているこの世に対して我慢し続けるのも、それなりの理由があるからなのだ。

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