期待値
2004年2月5日人は、他者に対して一定の期待値を持っている。
特に現代社会においては、あらゆるところで道徳的なことや倫理的なことだけではなく、普段は見えない、あるいは意識していない場所で、一定の規制・規則などを抱え、期待値として持っている。
例えば、このくらいのことをしたのだから、当然ありがとうくらい言ってくれてもよさそうなのに、そのようなお礼や感謝が返って来なかったとか、あることをお願いして、受諾したはずなのに、すぐにやってもらえなかったとか、あるいはまた、精魂込めて作った料理に対して、何ら感想も無かったとかの、様々な期待と期待はずれである。
人は不思議なことに、そのようなそれぞれの期待値を持っている。
共通の期待値もあれば、そうでないものもあるといったものではなく、個別具体的にそれぞれ異なるのである。
もちろん、政府に対して期待するものは何かと云うようなものであれば、当然、あることで括られるような、同じような期待値として表わされるが、元々はみんな異なっているのである。
問題は、まず如何にしてそのような期待値も持つにいたったかと云うことと、その期待値が満たされなかった時の心の処理である。
期待値は、自分自身がどのように評価されたいかと云うものの現れであると思う。
ありがとうを言ってもらいたかった、すぐにやって貰いたかった、何らかの感想を言って欲しかったのは、自分自身の「位置確認」であろう。
そのような「位置確認」がないと人はやっていけないのである。
そして、「位置確認」の共有化を計ろうとする。
共有された「位置確認」は自我を支える根拠となり、共有化されない「位置確認」は個性として勘違いされる。
恐ろしいのは、特定の集団の中で「位置確認」が共有化されると、そうでないものは暴力やいじめなどで排他される傾向にあり、共有化されない他者から見ると、実に愚かなことも、平然とやってのける。
当の本人たちは、それらに全く気が付くことも無く、新たな「位置確認」に移行しとき、移行せざるを得なかったときに、初めて気が付く。
次に、期待値が満たされなかった時の心の処理であるが、まず、そのような期待に応えなかった他者は心の中で非難され、排斥される。
ここで、当の本人が、期待値が満たされない以上に、その行為において自我を支える実体があれば、そのような非難や排斥は行われない。
そのような実体は、例えば何かの創作であったり、強く願われる意志であったり、また愛情であったり、様々であるが、大切なのは何がしかの自我を統制する意志を持っていることであろう。
人はいろいろな場所で出会う。
学校であったり、職場であったり、あるいはまた地域であったり、しかしそのような偶発的な出会いの中での他者との間に、そのような強い意志を持って関係を築くことは稀であり、
つまらぬ期待値に心を揺り動かされ、自我のための「位置確認」に忙しい毎日を送るのはいかにも哀れである。
それよりも、自身とどこかで繋がる何かを求めて、一見遠い存在であるような、もっとも近しい存在に何かを投げかける方が、まだましである。
特に現代社会においては、あらゆるところで道徳的なことや倫理的なことだけではなく、普段は見えない、あるいは意識していない場所で、一定の規制・規則などを抱え、期待値として持っている。
例えば、このくらいのことをしたのだから、当然ありがとうくらい言ってくれてもよさそうなのに、そのようなお礼や感謝が返って来なかったとか、あることをお願いして、受諾したはずなのに、すぐにやってもらえなかったとか、あるいはまた、精魂込めて作った料理に対して、何ら感想も無かったとかの、様々な期待と期待はずれである。
人は不思議なことに、そのようなそれぞれの期待値を持っている。
共通の期待値もあれば、そうでないものもあるといったものではなく、個別具体的にそれぞれ異なるのである。
もちろん、政府に対して期待するものは何かと云うようなものであれば、当然、あることで括られるような、同じような期待値として表わされるが、元々はみんな異なっているのである。
問題は、まず如何にしてそのような期待値も持つにいたったかと云うことと、その期待値が満たされなかった時の心の処理である。
期待値は、自分自身がどのように評価されたいかと云うものの現れであると思う。
ありがとうを言ってもらいたかった、すぐにやって貰いたかった、何らかの感想を言って欲しかったのは、自分自身の「位置確認」であろう。
そのような「位置確認」がないと人はやっていけないのである。
そして、「位置確認」の共有化を計ろうとする。
共有された「位置確認」は自我を支える根拠となり、共有化されない「位置確認」は個性として勘違いされる。
恐ろしいのは、特定の集団の中で「位置確認」が共有化されると、そうでないものは暴力やいじめなどで排他される傾向にあり、共有化されない他者から見ると、実に愚かなことも、平然とやってのける。
当の本人たちは、それらに全く気が付くことも無く、新たな「位置確認」に移行しとき、移行せざるを得なかったときに、初めて気が付く。
次に、期待値が満たされなかった時の心の処理であるが、まず、そのような期待に応えなかった他者は心の中で非難され、排斥される。
ここで、当の本人が、期待値が満たされない以上に、その行為において自我を支える実体があれば、そのような非難や排斥は行われない。
そのような実体は、例えば何かの創作であったり、強く願われる意志であったり、また愛情であったり、様々であるが、大切なのは何がしかの自我を統制する意志を持っていることであろう。
人はいろいろな場所で出会う。
学校であったり、職場であったり、あるいはまた地域であったり、しかしそのような偶発的な出会いの中での他者との間に、そのような強い意志を持って関係を築くことは稀であり、
つまらぬ期待値に心を揺り動かされ、自我のための「位置確認」に忙しい毎日を送るのはいかにも哀れである。
それよりも、自身とどこかで繋がる何かを求めて、一見遠い存在であるような、もっとも近しい存在に何かを投げかける方が、まだましである。
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